同じ林が、休息の場所にも方角を失う場所にもなります。分かれ目になるのは出口の見当と、覚えている明るさです。恐ろしい森という像は人類に共通のものではなく、特定の地域から受け継がれたものだとされます。
木立に入ると音の感じが変わります。森の夢を語る人はそこから話し始めることが多く、解釈のほうは何世紀ものあいだ正反対の二通りに割れてきました。身を隠せる場所であり深さを持つ場所である一方で、方角を失う場所にもなります。どちらを当てはめるかは、夢の中で出口の見当がついていたかどうかでほぼ決まります。
解釈もそこを手がかりにします。日が差し込む明るい林は休息と回復に、頭上を塞ぐ濃い茂りは圧迫と、選べるものが見えないことの側に数えられます。葉の落ちた冬の枝と、夏の重たい葉陰は、同じ場所にまるで違う読みを与えます。土の匂いや、足音が吸い込まれる感じまで覚えていれば、それも材料になります。季節がはっきりしない林だったという報告も多く、その場合は明るさだけを手がかりにします。
ヨーロッパの民話は、森を知られた世界の縁に置きました。そこから生まれた物語はどれも、道を外れることで動き出します。夢解釈はその形をそのまま受け継ぎました。木々のあいだの道をたどる夢は、輪郭のある過程として読まれ、道を外れて歩き回る夢は、知っている二つの場所のあいだにいて、どちらにも落ち着いていない状態として読まれます。入り口を覚えているかどうかもよく見られる点で、気づいたら中にいたという語り方は、いつのまにか始まっていた状況と重ねられます。
恐ろしい森という像は、人類に共通のものではなく、特定の地域から受け継がれたものです。日本の山の物語では、森は境目でありながら暮らしの場でもあり、恐れ一色にはなりません。林の中を歩いて育った人や、木を相手に働いている人が森を脅威として夢に見ることはまれで、そこへ民話の読みを押し当てると意味を失います。森が自分の人生で何であったかが、解釈の出発点になります。
森そのものと、そこで起きた出来事を分けて考えることも役に立ちます。多くの夢は森を舞台に使っているだけで、重さは中の出来事のほうにあります。その場合は、出会った動物や人の項目のほうが手がかりを持っています。