受け継がれた読みが集まっているのは、歩く速さではなく足の下です。泥や深い砂、坂の向きが意味の大半を持ち、そこに誰と並んでいたかが加わります。追われる夢や走る夢とは、別の項目として扱われてきました。
泥、深い砂、雪、言うことを聞かない脚。歩く夢でいちばん多く報告されるのは、歩いていること自体ではなく足もとの状態です。世界のどこでも語られる体験で、受け継がれた解釈は、かけた分がほとんど返ってこない努力というものでした。歩く夢そのものは、自分の力と自分の速さで進んでいる姿とされます。だから解釈する側は、これを成否ではなく、続いている努力がどう感じられているかについての覚え書きとして扱います。
楽に進める見通しのよい道は、おおむね思ったとおりに運んでいる時期として理解されます。上り坂は進んで引き受けた負荷とされます。下り坂は意見が割れ、ようやく訪れた楽さとも、自分で決められなくなった速さとも読まれます。裸足で歩いている形も報告が多く、無防備さとしても身軽さとしても読まれてきました。階段や坂の途中で立ち止まる場面も、同じ足もとの話として扱われます。舗装のない道や、途中で消えてしまう道を挙げる報告もあります。
絵の残り半分は同行者です。誰かと並んで歩くことは、長く共有された方向として理解されてきました。連れ合いや長い友情についての夢にこの姿がよく出るのは、そのためです。一人で歩く夢は自立にも寂しさにもなり、どちらだったかは説明できなくても本人はほぼ例外なく分かっています。前を行く誰かに追いつけないまま歩く形は追跡の夢のほうに属し、何かを先延ばしにした時期のあとに続くことが多いとされます。後ろから誰かが付いてくる形は、また別の項目に近づきます。
この項目は、走る夢や追われる夢から分けておく値打ちがあります。ここでは何も追ってきていませんし、速さを競うものでもありません。毎日何キロも歩いている人は、象徴ではなく風景を夢に見ているので、そのように読んで差し支えありません。散歩が習慣になっている人にとっては、日中の道がそのまま夜に続いているだけということもあります。歩行の状態が変わった人にとって、眠りの中で自由に歩けることは夜がくれるもっとも心を動かす体験になり得ます。一般的な解釈をその上に重ねる資格は、辞書の側にはありません。