手がかりは道があること自体ではなく、路面や明るさ、曲がり角のほうに集まっています。まっすぐか、掘り返されているか、細くなって消えていくか。伝統はその状態のほうを読んできました。
小学校までの通学路、辞めた職場への道順、何年も前に離れた町を出ていく道。夢に出てくる道は、しばしばその時期の感情の色をつけたまま現れ、解釈する側もたいていアスファルトではなく時期のほうを読みます。道が夢の風景の中で群を抜いて多いのは、起きている時間の多くをその上で過ごしているからでもあります。伝統的な読み方は素直で、道は人生の向かっている方向を表すとされます。ただし昔から見られてきたのは道の有無ではなく、その状態のほうです。
同じ道でも、明るさが変わるだけで印象は一変します。街灯の切れた道と、朝の光が差す道では、目が覚めたあとに残る気分がまるで違うからです。細部から尋ねられるのは、そのためです。
道順は合っているのに建物だけが違っていたという報告は多く、これは普通のことで、何かのしるしではありません。引っ越したばかりの人が前の家の道を歩いている夢を見るのもよくあることで、地理の記憶は住所より遅れて書き換わるようです。毎日の通勤路が、名前のない道になって現れることもあります。
歩く、運転する、助手席に座る。この三つは、事の運びにどこまで口を出せるかの三段階として読まれてきました。渋滞で進まない場面や、道を逆に走ってしまう場面も、進みにくさの型として語られます。長距離を運転して暮らす人、どこへでも歩いていく人、事故のあとまだ車に慣れない人は、同じ道を違う条件で進みます。読み方が一つに定まらないのは、そのためです。行き先を知っていたかどうかも、覚えていれば手がかりになります。