岸に閉じられているという一点が、この水の読みを決めてきました。外の出来事ではなく内側の天気として扱われ、報告に真っ先に出てくるのも水面のほうです。平らだったか、下で何かが動いたか。
湖は岸に閉じられた水です。川のように流れて行き先を持つわけでも、外洋のように端が見えないわけでもありません。伝統がこれを外から来る出来事ではなく、内側の天気として扱ってきた理由はそこにあります。溜まった水は何百年も気持ちの状態として読まれてきました。報告で真っ先に出てくるのも水面で、映り込みを保つほど平らだったか、下で何かが動いたか、向こう岸が見えたかどうかに集まります。向こう岸までの距離をはっきり言える人は少なく、その曖昧さも報告の特徴です。
湖で泳ぐ夢と岸に立つ夢は、かなり違う読みになります。水に入るのは、眺めるのではなく感じる用意ができていることとして扱われ、報告する人は他のどの細部よりも水温を生き生きと語ります。岸から動けないまま眺めている形は、決めかねている時期と重ねられることが多いとされます。落ちる、引き込まれる場合は溺れる姿に近づき、読みは飲み込まれる感覚に向かいます。現実の水について何かを言うものではありません。舟で漕いで渡る形は、古い記述では自分の速さで何かを越える絵とされました。
澄んだ映り込みを抱えた穏やかな湖は落ち着いた感情として読まれ、休めたと感じて目覚められる数少ない姿の一つです。小さな波が立っているだけの湖は、落ち着きと落ち着かなさの中間として語られます。中が見えないほど暗い水は、知ってはいるがまだ見ていないものの像として読まれてきました。誰かが隠しているものではありません。干上がった湖や水位の下がった湖は、空になった時期や手持ちの乏しい時期と重ねられます。表面を覆う氷は止められた感じとされ、古い本は下に何があるか本人は知っているものだと付け加えます。
辞書の意味は出発点で、それ以上のものではありません。子どものころ毎年同じ岸で夏を過ごした人は、この姿をすでに抱えたままここへ来ます。湖で溺れかけた人には、穏やかな型のほうが何も響きません。湖の名前を覚えていたという報告も珍しくなく、その場合は水そのものより、その土地と結ばれた時期のほうが読みの入り口になります。暑い一週間、計画中の旅行、前の晩に見た一枚の写真。ありふれたきっかけも数に入ります。