澄んでいたか、濁っていたか、増えつつあったか。水の夢ではこの一点が最初に問われます。ただし喉の渇きや室温、雨の音といった身近な原因も同じくらい頻繁に挙げられてきました。飲み水と海では、同じ水でも扱いが違います。
夢の記録に最も多く現れる要素のひとつが水で、古い事典が何ページも割いてきたのもそのためです。長く残ってきた読み方では、水そのものはほとんど中立に置かれます。読まれるのは状態のほうで、澄んで静かな水は落ち着いた気持ち、かき混ぜられた水や濁った水はまだ整理のついていない気持ちを映すとされてきました。ここでの水は出来事ではなく鏡として扱われます。
土地による差は大きく、水の乏しい地域では恵みや豊かさとして、雨季に洪水が来る地域では脅威として語られてきました。どちらも本物の伝統で、どちらかが世界共通というわけではありません。個人の来歴も同じ強さで働きます。毎朝泳ぐ人にとって眠りの中の水は慣れた相棒ですが、子供のころ溺れかけた人が出会うのはまったく別のもので、その私的な記憶は事典が口を開く前に調子を決めてしまいます。
どれも予言ではありません。すでに抱えていた気分を、本人に向けて言い直しているだけです。水との距離も同じように読まれ、眺めていたのか、足首まで入っていたのか、頭まで沈んでいたのかは別の場面として扱われます。飲み水、風呂、雨、海はそれぞれ違う器に入った水で、器が変われば読み方も変わります。
象徴の体系を持ち出すまでもない原因も多くあります。喉が渇いたまま寝た夜、暖房の効きすぎた部屋、夜中に何度も起きる時期。午後をプールで過ごした日や、窓に当たる雨の音を聞きながら眠った晩も同じです。海辺で一日過ごした翌朝に海の夢を見たなら、その一日はりっぱな答えになります。梅雨の長雨が続いた週に水の夢が増えるという話も、珍しいものではありません。