支えは何もないのに、進めているかどうかだけははっきり残ります。泳ぐ夢はそう語られてきました。伝統は流れの向きと水の澄み具合を手がかりにし、泳ぎの上手下手はほとんど問題にしてきませんでした。
息をしなくても平気なまま、水の底を進んでいく型があります。泳ぐ夢のうちでもとくによく覚えているものとして語られ、空を飛ぶ夢と並べて、制限の外れた感覚として同じように扱われてきました。実際の能力について何かを述べるものではないという点も、飛ぶ夢と共通しています。泳ぐこと自体は、支えのない場所で浮かび続け、進み続ける営みとして読まれてきました。
向きを最初に尋ねる解釈者は多いです。流れに乗って泳ぐ場面は、状況のほうが仕事の一部を引き受けてくれている状態として読まれ、拍子抜けするほど楽だったと語られることもあります。流れに逆らう場面は、結果の出ていない努力を表す定番の絵で、報われない時期が長く続いているときに多く報告されます。見えない力に横へ引かれる感覚は、障害というより影響力についての映像として分類されてきました。岸がまったく見えない場面は、どこまで続くのか分からない時期の記録として語られてきました。
底まで見える水は、状況をよく分かっている状態と重ねられます。暗く濁った水は分からなさと結び付けられ、そこでの居心地の悪さは、泳ぐことより下に何がいるのかに向いています。温度はもう少し緩やかに読まれ、冷たい水を気の進まなさに、温かい水を受け入れる気持ちに重ねる伝統があります。水の中に何かがいると分かっている場面は、まだ名前のついていない気がかりの側に数えられます。
泳ぐ夢の話を聞くと、返ってくるのはたいてい水の描写です。温かいか冷たいか、静かか、押し返してくるか。泳ぎ方そのものは語り直しの中でほとんど残りません。解釈がまず水を見るのも、そのためです。
海へ出かけた週、久しぶりに温水プールへ通い始めた頃、寝る前に浴槽で長くのんびりした夜。体が覚えた感覚がそのまま夜に戻ってくることは珍しくありません。競技として泳いできた人と、一度も泳げるようにならなかった人は、夜にまったく違う水と出会います。プールだったのか海だったのかも同じくらい効いてきます。区切られた水と、果てのない水では、体に残る感じが違うからです。