恐ろしい獣として書く筋と、群れで支え合う姿を書く筋が、同じ動物について並んで残ってきました。どちらが働くかは場面が決めますが、その手前で、見る人の来歴のほうが先に効いてきます。
追われているのに、いつまでも捕まりません。オオカミの夢でとくによく語られるのはこの型で、追跡の夢全体と近い場所に置かれてきました。外から迫る危険というより、避けつづけている用事の側に理由があることが多いようです。姿は見えず遠吠えだけが聞こえる型も別に記録されていて、こちらは近づいてくる何かではなく、離れた場所に確かに在るものへの意識として読まれます。
この動物の恐ろしさがどこから来たかは、はっきり書いておく値打ちがあります。その多くは世界のある一角で子どもに語られてきた物語の産物であり、人が共通して持つ体験ではありません。日本では山の神の使いとされ、田畑を荒らす獣を退ける存在として祀られた土地もあります。どの版が正しいというものではなく、一つに決めて示す辞典は、自分の育った土地の話をしているだけです。
数はほとんどの版で意味を左右します。近づいてこず、離れた場所からじっと見ている一頭は、周囲から切り離したまま抱えている自分の一部として読まれることが多くあります。群れになると意味は所属の側へ動きますが、輪の内側にいるのか、外から囲まれているのかで印象は正反対になります。犬なのかオオカミなのか決めきれないまま終わる夢も多く、そのあいまいさ自体が、相手をどう扱ってよいか決めかねている状態に重ねられます。群れで暮らし群れで狩る動物であることから、結束や粘り強さの側から書かれた版も古くからあり、そちらでは同じ姿が助けの顔で現れます。輪の内側にいるときと外にいるときで印象が入れ替わるのも、この二面があるためです。
犬を育ててきた人はオオカミを見ても見慣れた形として受けとり、夢は好奇心の側に落ちます。物語のなかでしか会ったことのない人にとっては、同じ姿が警告の顔で現れます。野生のオオカミが姿を消して久しい土地では、この動物は現実の記憶ではなく、物語と資料のなかから呼び出されます。その差は、解釈が届くよりも先にその晩の意味を決めてしまいます。