摘んだのか、買ったのか、誰かから手渡されたのか。果物の夢では手の動きも読まれますが、解釈する側が先に尋ねるのは熟れ具合のほうで、そこで意味は四つに分かれます。土地ごとの連想も強く働きます。
日本語でも努力が実を結ぶと言います。果物の夢はまさに時期についての絵柄で、熟れているか、青いか、熟れすぎているか、傷んでいるかは四つの別の絵として数えられます。解釈する側が最初に尋ねるのもそこです。全体としては結果、つまり手を伸ばせば取れる形になった成果と結びつけられてきました。単独で出てくることは少なく、器、市場の台、まだぶら下がっている枝といった場面もあわせて読まれます。
熟れた果物は用意が整ったものとして読まれ、これ以上待っても得るものはないという合図として語られることもあります。青い果物は失敗ではなく早さの問題とされ、事典全体の中でも穏やかな部類の読み方です。熟れすぎた果物や傷のついた果物は、少しだけ置きすぎた時機と重ねられます。腐った果物は、これから来る出来事ではなく、すでに分かっている落胆として扱われるのが普通です。
個々の果物には土地に強く結びついた意味があります。ざくろ、いちじく、なつめやし、みかん、りんごはそれぞれ別の物語の中に置かれていて、地域が変われば話も変わるため、ある土地の読み方をそのまま持ち出すことはできません。祖父母の庭にあった木、季節の贈り物として届く箱、お盆に供える皿。自分の暮らしの暦に組み込まれた果物なら、その連想から始めるほうが確かです。
果物をどうしたかで読み方はさらに動きます。自分で摘む場面は直接手に入れることと、買う場面は別の手段で得ることと、誰かに手渡される場面はよそから受け取ることと結びつけられます。分け合う場面は多くの伝統で巡ってくる気前よさとして語られてきましたが、これは古い教訓としての読み方で、何かの約束ではありません。皮をむく、切り分ける、種を取り出すといった手の動きも記録されてきました。ひと手間かけてから口に入るという点が繰り返し指摘され、時間のかかる仕事の絵として読まれます。旬の外れた果物が並ぶ場面は時期のずれとして、落ちたまま拾われない実は置き去りにした計画として語られることもあります。果物は最も平凡な理由でも出てきます。前の日に食べた、あるいは食べたかった、それだけのこともあります。