霧が読まれてきたのは、視界そのものよりも材料の不足としてです。いつもの道しるべが静まり返り、選ぶために必要なだけ先が見えない時期の絵として、古くから繰り返し扱われてきました。
霧の夢は、追われる夢や遅刻の夢と違って、めったに人を飛び起きさせません。こもった感じで、動きが遅かったと語られます。世界が数メートル先までに切り詰められる映像でありながら、読みが危険の側に寄らないのはそのためで、伝統は霧を、選ぶために必要なだけ先が見えない時期、いつもなら道しるべになるものが静まり返っている時期として扱ってきました。
取り戻す価値のある細部は、霧の中に何かがいたかどうかです。近づくと人の形になった影、半分だけ見覚えのある建物、音源のわからない物音。どれも読みを別の方向へ運びます。何も隠していない霧は、その中の特定の一件ではなく、時期そのものへの不確かさとして読まれます。誰かを見失う夢はよく報告され、伝統はそれを、その人の身に何かが起きる印ではなく、距離が開いていくことの絵として受け取ってきました。声だけが聞こえて姿の見えない場面も多く語られ、相手の考えが読めない関係の絵として扱われます。
解釈する側が次に尋ねるのは、霧の中で何をしていたかです。そのまま歩き続けた場合は、確信がないまま進むこととして読まれ、古い資料はこちらを勇気のある型として扱います。立ち止まって晴れるのを待った場合は、意識して先送りにした判断として読まれますが、その場面を怖かったと語る人は少なく、むしろ妙に静かだったと言います。車で霧に入っていく夢は道の映像の仲間で、視界の問題に速度の問題が加わります。誰かに手を引かれていたか、自分が先を歩いていたかという細部も、別々に扱われます。
霧が普通の天気である土地に住んでいるなら、映像は窓の外から歩いて入ってきただけかもしれません。梅雨どきや秋口の朝に霧の中を通勤している人にとって、それは日常の一部です。結果待ち、他人の手に委ねた判断、返事の来ない応募。長く宙づりの状態のあとに報告されやすい映像でもあり、実際に霧の中を歩いたときの感覚のほうが、どの項目の説明よりも夢の色を決めるとされます。