まず尋ねられるのは足そのものではなく、何の上に立っていたかです。砂か、氷か、温かい草か。伝統はこの二つを一組として扱い、支えるものと、その上を運ぶものとして読んできました。
解釈する側は、足そのものより先に、何の上に立っていたかを尋ねます。砂、氷、割れたガラス、温かい草、濡れた石の床では、同じ足でも絵がまるで変わるからです。伝統はこの二つを一組として扱ってきました。支えるものと、その上を運ぶものです。足の夢で覚えているのがたいてい状態のほうなのも、そこに理由があります。裸足、泥だらけ、血がついている、沈んでいく、あるいはまったく動かせない足。読み方は人生における立ち位置、つまり自立や進む方向、自分の重さを自分で支えられている感覚と結び付けられてきました。
裸足は、地面が安全に感じられたかどうかで、無防備さとも飾らなさとも読まれます。泥で汚れた足を恥と結び付けない解釈も古くからあり、そこまで歩いてきた距離のしるしとされます。傷ついた足は前進の足止めを表す象徴として語られますが、体そのものについて何かを述べるものではありません。靴を片方だけ探している場面は、支度が整わないまま出ていく感覚と重ねられることの多い型です。足が地面から離れて浮いている場面は、現実味の薄れた時期の記録として語られてきました。
夢を見ている間、体はほとんどの随意筋を止めています。見ている内容をそのまま演じてしまわないための仕組みです。眠っている側がその静止を夢の中から感じ取ることがあり、言うことを聞かない脚はその表れ方の一つとされます。何かが近づいてくるのに動けないという型が繰り返し報告されるのは、そのためです。不気味な感覚ですが、ごく普通に起こることです。仕組みを知っても映像の意味が消えるわけではなく、なぜ何度も戻ってくるのかが分かるだけです。
どこまで当てはまるかは人によります。踊る人、12時間の勤務を終えた看護師、足の痛みと付き合いながら暮らす人は、同じ絵にまったく違う記憶を持ち込みます。立ち仕事の続いた週の終わりに、この夢が戻ってくるという話もよく聞きます。その記憶のほうが、並べられた解釈より重く扱われるべきものです。