音の記憶から語り始める人が多い項目です。近づくほど会話が届かなくなる感覚、落ちているのに音がしないという不思議さ。伝統がこの水を破滅ではなく安堵の側へ置いてきた理由も、そうした手触りのほうにありました。
この絵の解釈は、ほとんど音の上に建っています。轟音と、止めようのない大きさのすぐそばに立っているという感覚があります。滝の夢を語る人が、水の姿より先にそこから話し始めるのはそのためです。古くから読まれてきたのは解放でした。しばらく抑えられていたものが、いま確かにどこかへ向かっていて、その速さは誰も選んでいないという形になります。
古い夢の本は、この絵と洪水のあいだにはっきりした線を引きました。洪水は、あるべきでない場所にある水です。滝は、昔からずっと通ってきた道をそのまま通っている水で、驚かせるのは速さだけです。この区別があるために、解釈者は落ちる水を破滅ではなく安堵として扱います。ときに手に余る安堵ではありますが、壊れる絵ではありません。真下に立つ夢を見た人が、疲れているのに軽くなって目覚めたと語るのも、この読みに合っています。
音そのものを覚えている人も多くいます。近づくにつれて会話が届かなくなる感覚は、周りの声が聞こえなくなるほど何かが大きくなっている状態として読まれてきました。反対に、水が落ちているのに音がしない型は不思議な印象として語られ、感じていることと表に出ていることがずれている図に置かれることがあります。
本物の滝のふもとに立った日がある人は、その日をそのまま夢へ持ち込みます。参考書が足せることは、たいていそれに勝てません。旅先で見た滝のそばに幸福な記憶がある人にとっては喜びの絵になり、濡れた岩で足を滑らせた人にとっては緊張の絵になります。すでに持っている連想のほうが、いつでも先に使われます。