頂に着いたのに拍子抜けした、という報告は古い解釈書もわざわざ書き留めています。登る夢は向上心の絵として読まれてきましたが、山だったのか階段だったのか、梯子だったのかで、話はずいぶん変わります。
目が覚めたときに本当に筋肉が疲れていた、という話をよく聞く夢です。引っ越しの荷物を運んだ週、寝返りの打ちにくい姿勢、単純な疲れが下敷きになっていることもあります。それでも残るのは傾きと手のかかり、そしてまだ登りきっていない距離のほうです。伝統的な読み方も素直にそこをたどり、向上心と、それに払う代償を映す絵として扱ってきました。
頂に到達する夢は、目指してきたものにたどり着いた場面として理解されます。古い解釈書は、そこで拍子抜けしたという報告の多さにも丁寧に触れており、いつの間にか望まなくなっていた目標のしるしと読みました。表面が崩れたり、足場や横木が抜けたり、いくら登っても進まなかったり。こうした場面は失敗ではなく、努力が抵抗に出会っている状態として語られます。誰かが自分より上にいる、あるいは下にいるという構図は、たいてい比較についての夢です。あまり心地よくない読み方ですが、当たっていることが多いとも言われます。頂上が霧で見えないという型も、繰り返し報告されてきました。
山や丘は、頂上の見えている長い取り組みという古典的な絵です。階段は、誰かがすでに段を用意してくれている、順序だった前進として読まれます。梯子は立場や序列と並べて読まれることが多く、その立場がどれくらい不安定に感じられているかも一緒に映すとされます。塀や柵はそもそも上昇ではなく障害として扱われ、上がるためというより、そこから出るための行為と読まれることが多くなります。木や岩場を登る場面は、決められた段のない登り方として、自分で足がかりを探している時期と重ねられます。
下りる場面を覚えている人はあまり多くありません。古い解釈書もそこには言葉を割いていませんが、登りきったあとの下り道を不安に感じたという報告は残っており、手放し方が決まっていない状態として語られています。
山に登る人、屋根の上で働く人、週末ごとに岩場へ通う人は、向上心とは関係のない理由で登る夢を見ます。駅の長い階段を毎日上がっている人にとっては、ただの通勤の記憶かもしれません。その場合は、その人の生活に沿って読むほうが自然です。