同じ景色を見ても、満員の競技場で機嫌がよくなる人と、混んだ店に10分といられない人では別の経験になります。祭り、満員電車、新学期の最初の一週間。解釈をまったく必要とせずにこの夢を運んでくる出来事も、実際には数多くあります。
古い解釈がこの絵に読んできたのは、中にいた誰か一人との関係ではなく、大勢としての人との関係のほうでした。そして読みのほとんどは一点で決まります。自分がその群れに属していたのか、それとも真ん中で立ち往生していたのか。この二つは同じ景色に見えて、まったく別の夢として扱われてきました。混んだ一日のあとに混んだ夢が来るという単純な順番も、あわせて覚えておく価値があります。
流れに運ばれ、困りもせずに一緒に動いていた場合は、帰属の感覚として読まれます。ときに、自分がどれほど簡単に周りへ合わせているかという覚え書きとしても扱われます。動けない場合、あるいは選んでいない方向へ押されていく場合は、断れなくなった義務と結び付けられます。特定の一つの顔を探し続ける型は繰り返し語られるもので、たいていは、それ以外のすべてを差し出してくる状況の中で、必要な一つだけが手に入らない感覚に置かれます。離れて眺めている姿は距離として読まれ、伝統はそれ自体を良いとも悪いとも決めていません。
群れが何をしているかも効きます。まったく気づかれない場合は、認められていない感覚と結び付けられてきました。全員が振り向いてこちらを見る場合は、人前で準備ができていない夢や服を着ていない夢と同じ家族に入ります。物音一つしない群れは不気味な型ですが報告は多く、判断の読めない観客として理解されます。
群れの正体も読みを動かします。祭りの人出や行列のように目的を共有した集まりと、駅の乗り換え通路のようにたまたま同じ方向へ流れているだけの集まりでは、人数が同じでも手触りが違います。伝統の記録では前者は所属の側、後者は匿名の側へ置かれてきました。隣の人に声をかけられる集まりだったかどうかを目安にする読み方も残っています。
ここでは人による差が大きく、その差は象徴の力を上回ります。満員の競技場で最も機嫌がよくなる人と、混んだ店に10分といられない人が、まったく同じ夢を語りながら別の経験を話していることがあります。近い出来事も効きます。祭り、満員電車、行列のできた催し、結婚式、新学期の最初の一週間。どれも解釈をまったく必要とせずに、この夢を運んできます。