解釈者がこの虫に見てきたのは危険ではなく反復です。何度払っても同じところへ戻るという手ざわりが読みの核に置かれ、一匹か群れか、何の上に止まっていたかで枝分かれしていきます。
虫の夢がこれほど説明を求められるのは、筋書きよりも目覚めたあとに残る感触のせいです。ハエの解釈が落ち着いている先も、危険ではなく反復のほうでした。払っても払っても戻ってくるもの、振り向けばまた同じところにいるもの。大きな災いではなく小さな苛立ちの象徴として、古くから読まれてきました。
止まっていた場所は意味の一部を担います。食べ物やごみの上に群がる絵は、傷みや放置についてのかなり古い層に属します。長いあいだ誰も目を向けていない場所、手つかずのまま置かれたものへの連想であって、体調や家の清潔さについての判定ではありません。伝統的には、日常の隅をひとつ片づけるきっかけとして語られてきたにすぎず、それ以上の重さを持たせる必要はないとされます。窓辺に何匹も張りついている絵や、閉め切った部屋に入り込んでくる絵も同じ層で扱われ、外から入ってくる煩わしさとして並べられます。
数がものを言う点で、この虫は他の生き物と少し事情が違います。一匹が目の前を回っているだけなら、片づかない用事がひとつ残ったままの状態を指す型とされます。群れになると読みは積み重なりのほうへ移り、細かな頼まれごとや連絡が同じ時期に重なった記録として語られます。群れが窓の外にいるだけで部屋には入ってこない、という形も報告されます。追いかけても死なないハエ、手で払った次の瞬間にまた現れるハエ。こうした語りが昔から多いことも、解釈が反復へ寄ってきた理由のひとつです。
耳元で羽音がしたまま眠りに落ちれば、その音はほとんどそのまま夢に持ち込まれます。姿は見ていないのに一晩じゅう音だけがしていた、という語りも一定数残っています。目覚めたあとも続いているようなら、意味を探す前に部屋を見回すほうが早い場合もあります。夏になれば虫がいて当たり前という家で育った人と、視界に入るだけで身構える人とでは、同じ絵を見ても同じ夢を見たことにはなりません。仕留められたかどうかを気にする人もいますが、古い記録では成功も失敗も等しく扱われ、どちらかが良い報せとされたことはありません。