式を仕切る側に立っていた、という型もよく報告されます。終わらせる役を自分が引き受けている図として読まれてきました。参列者の顔ぶれが不自然にそろっていたという記録も残っています。中心にあるのは死ではなく、区切りという働きのほうです。
まったく面識のない人の葬式に出ていた、という報告がとても多く残っています。この事実は、伝統的な読みにきれいに収まります。葬式の夢は終わりや変化の絵として読まれてきたのであって、誰かが亡くなることを告げるものではありません。心配しながらこの項目を開いた場合のために、その一行を先に置いておきます。まじめな解釈者がこの絵を生きている人についての知らせとして扱うことは、長いあいだありませんでした。
葬式は死ではなく儀式です。解釈者はこの区別を非常に重く見ます。夢が読まれるのは、何かが正式に終えられる場面としてです。置いてきた仕事、離れた土地、数か月前に終わっていたのに夢のほうがようやく認めた関係。働いているのは儀式のほうで、誰の式であったかはほとんど付け足しだと考えられてきました。式の重さと、そこに横たわっている人の重さは別だという整理です。
細部にも読みが割り当てられてきました。式に遅れる、場所が分からない、着ていくものが用意できていないといった型は、区切りを付けそこねている感覚として扱われます。反対に、式を取り仕切っている型は、終わらせる側に自分が立っている図として読まれます。参列者の顔ぶれが妙にそろっていた場合も、しばしば記録に残されてきました。
自分の葬式を眺める夢は、標準的な変わり型と呼べるほど多く報告されています。伝統では自分の人生の一章が閉じる図として読まれ、見た人は苦しさよりも好奇心を持って遠くから眺めていたと語ることが多いようです。誰が来ていたか、自分について何が語られたかが、解釈者の使う材料になります。寿命についての話は、そこには含まれていません。
近しい人を亡くした時期は、この夢の性格が変わります。見送って間もない人は葬式の夢を見ますし、その人自身の夢も見ます。それを象徴として読み解こうとするのは、辞典のすることではありません。こうした夢は死のあとに広く報告され、つらさと嬉しさが同時にあったと語られます。頻繁に訪れて抱えきれない場合は、この頁の解釈よりも、信頼できる人に話すほうがはるかに役に立ちます。式の作法も土地ごとに大きく違い、夢が用意した細部は自分の知っている式から来ています。