この辞典で個人差がいちばん大きい項目です。ある人には安全そのもので、別の人には長く向き合ってきた困難の出どころになります。実在の人の近況を告げる知らせとしては扱われません。
解釈する側はこの人物を、実在の人からの知らせとしてではなく、世話をめぐる関係の全体像として扱ってきました。遠い昔に受けた世話と、いま誰かに渡している世話の両方が、同じ姿に重なります。筋書きをあまり覚えていないという話が多いのもこの項目の特徴で、残るのは空気のほうです。あたたかさ、張りつめた感じ、その部屋でまた子どもに戻ったような妙な手触り。
怒っている母は、最初に覚えた声のままの自己批判を長く指すとされてきました。こちらに気づかない母は、距離を置いた時期や自立の途中でよく語られます。実際よりずっと若い母は、役割ではなく一人の人として見えてきた場面と重なり、必要のない世話をしている場面は、責任の位置が動いたしるしとして読まれます。見分けがつかない姿で出てきた母も報告があり、役割だけが残って顔が抜け落ちた形として説明されます。声だけが聞こえて姿の見えない形も、しばしば語られてきました。
この違いは、ほかのどの細部よりも読み方を変えます。存命の場合、夢はいまの関係、その心地よさと摩擦の側から理解されるのが一般的です。亡くなっている場合、この夢は死別のあとに非常によく語られ、悲しみの時期でいちばん慰めになった部分だったと話す人が少なくありません。悲嘆を研究する人たちもこうした夢を頻繁に記録し、喪の過程にありふれた特徴として扱っています。それが何であるかについてここでは何も主張しませんが、受け取る慰めが本物であることは尊重されるべきだとされます。
お盆や命日、季節の行事のあとに増えると語られることもあり、心当たりのある時期は先に見ておくと読み方の当たりがつきます。早くに死別した人、養子として育った人、疎遠になった人にとっては、この姿がまったく別の誰かから組み立てられていることもあります。一般的な読み方は、その人にとっての実際の意味に道をゆずるほかありません。なお、母親の夢はその人の健康や身の上について何も語らないとされます。連絡を取るきっかけになることはあっても、夢が先に何かを知らせたわけではありません。